連合北海道ロゴ 連合北海道 (日本労働組合総連合会 北海道連合会) 連合北海道 Rengo Hokkaido official website

トップページ → 連合資料室 → 資料
憲法講座−第四回 「人権と個人の尊重」
講師 北星学園大学 岩本 一郎 教授

                            と き 2014年2月25日(火) 18:00〜
                            ところ ホテルポールスター札幌 2階 「コンチェルト」

 皆さまこんばんは。北星学園大学の岩本と申します。私の専門は、今日お話をする『人権』です。
 これまで、憲法9条、立憲主義についてお話をしてきましたけれども、ある意味では今日お話をすることが最も私の専門に近いお話、ということになります。
 昨日、私は美深の連合で特定秘密保護法についての学習会に参加をしてきました。私は、小学校、中学校を名寄で過ごしたので、時間があったので名寄の街を歩いてみました。30年ぶりに自分が育った町を歩いたのですが、当時の面影を探して歩いたのですが、なかなか見つかりませんでした。本当に自分が生まれ育ったところがここなのかというような、さびしい思いにもなりました。30年前の私の中にある名寄市と、昨日歩いた名寄市とはかなりかけ離れたものでした。ここでこういう話をするのは、30年後、我々がいま生きている日本と相当違っているのではないかと思います。このまま安倍政権がやろうとしていることを全部実現するとなれば、今われわれが生きているこの日本と、30年後では全く違った国の形になっているだろうということを確信しています。ですから、いま安倍政権がやろうとしていることを逐一批判し、それをストップさせることを国民・市民が力を挙げてやっていかなければならないのではないかと思います。今、安倍政権がやろうとしている改憲というのは、世界史の中の日本国憲法を破壊しつくそうということをやろうとしているわけです。世界史の中でこの日本国憲法というのは、国民主権、人権そして平和主義という普遍的な価値に基づいて60年以上の間、その役割を果たしてきたわけです。この世界的な普遍的な価値をすべて否定し、彼らが持っている独自な価値観で、今、憲法を作りかえようとしているわけです。

 今日お話をするのは、まず世界史の中でこの日本国憲法を考えたとき、まずその成り立ちになるのが1776年のアメリカ独立宣言です。このアメリカ独立宣言がフランス革命へと流れていくことになります。アメリカの独立宣言は合衆国憲法へと発展していくことになります。アメリカ建国の父と言われているジェファーソンはフランスの大使としてフランス革命を目撃します。ジェファーソンはフランス革命の中でフランス人権宣言されるその現場に立ち会っていたわけです。アメリカ独立宣言はフランス人権宣言へとなだれ込んでいくわけです。このフランス人権宣言は日本と無関係であるわけではありません。このフランス人権宣言は、明治憲法が制定される前、様々な形で民間の人たちが私議草案、民間の憲法草案を作って発表していました。それが1880年代です。明治憲法、大日本帝国憲法が制定されるのは1889年で、この間に様々な民間の憲法草案が発表されています。その中の代表的なものが植木枝盛のものです。この植木枝盛の憲法草案を高知県で発見したのが鈴木先生です。鈴木先生が当時やっていた仕事は、明治憲法制定過程の研究でした。その中で植木枝盛の私議草案を発見し、それが憲法草案に結実していくわけです。さらにこれがマッカーサー草案に大きな影響を与え、そしてそれが日本国憲法へ具体化されていくことになる。こういう世界史の中で日本国憲法を見たとき、このアメリカ独立宣言、合衆国憲法、フランス人権宣言という近代自然権思想の考え方をすべて否定した上で、安倍政権は新しい土台の上から憲法を作ろうとしているわけです。そのことに対して日本ではあまり報道されていませんけれども、西欧の心ある人たちは大きな危機感を持っています。アメリカ、ヨーロッパの心ある人たちは、安倍政権の動きは自分たちの歴史を否定した上で新しい憲法を作ろうとする非常に危険なものと認識しているわけです。今日はヨーロッパの中で、人権に関してそれがどのように発展してきたのかということをお話していきたいと思います。

<人権の歴史>
 初めて「人は生まれながらにして権利をもっている」というこの人権宣言を憲法の中で謳ったのが1776年ヴァージニア権利章典です。当時ヴァージニアはイギリスの植民地でした。このヴァージニア権利章典がヴァージニアの憲法になります。ですから、このヴァージニア権利章典というのは世界史の中で初めて人権を宣言した文章で、そして初めてそれを憲法の中に盛り込んだ歴史的、画期的な人権宣言です。この中身は近代憲法の中にすべてが盛り込まれています。第1条すべての人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利・・・これは英語では natural right つまり自然権です。この自然権というのはnaturalという言葉の訳としては正確ではなく、ここでいう natural というのは、自然・天然という意味ではなく、生まれながらに、という意味で使われています。正確に訳すと生来の権利です。この権利はどういう権利かというと「財産を取得し、幸福と安全を追求する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である。」ということで、生命、自由、財産、そして幸福追求という言葉がここで宣言されることになります。そして第2条すべての国の権力は人民に存し、したがって人民に由来する。これが国民主権の宣言です。第3条はロックの考え方を受けて、政府は何のためにあるのか、それは人権を守るために政府がある。政府の究極の根拠は人権を保障することである。したがって人権を侵害する政府には政治的な正当性はない。人権は国にとって政治的な正当性、国が存在する理由そのものです。国家がこの人権を否定するということは、国家自らが拠って立つこの正当性の根拠を否定するということです。ですからこの第3条はその人権を侵した政府についてはそれを変革し、廃する権利が国民にあるという抵抗権がそこから生まれてくるわけです。人権というのは、国家が拠って立つ究極の基盤であり、国家がその基盤を破壊しようとしたときには、その国家を革命によって廃する権利すら国民にはあるというのがヴァージニア権利章典の三つの条項で語られています。この権利章典を書いたのがジェファーソンだと言われています。あるいは、ジェームズ・マディスンだと言われています。彼らが独立宣言を起草したのでヴァージニア権利章典と同じような内容を持っています。
 1776年のアメリカ独立宣言は、生命及び自由、幸福の追求を有するということを信ずるということで、これは後でもお話をしますけれども、今の日本国憲法に大きな影響を与えた条文でもあります。日本国憲法の13条には「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」というのが13条の条文です。これはアメリカ独立宣言の言葉を受け継いだ条文です。当時、アメリカはイギリスの植民地ですが、イギリスが植民地のアメリカに対しどのような横暴を働いてきたかということを縷々述べるわけです。イギリスが植民地にした様々な不当な事柄を列挙するわけです。なぜ列挙するかというと、それが独立の根拠になるからです。自分たちの権利を保障しない政府は自分たちの手で改廃することができるという権利を実現したのがこのアメリカ独立宣言です。イギリスがこうした横暴をやってきたので、イギリスの植民地から逃れることができるということを実現したわけです。そしてそれに続くのが、1789年のフランス人権宣言です。このフランス人権宣言の正式名称は「人および市民の権利宣言」ということになります。ここでは人の権利だけではなく、市民の権利も付け加わったということです。人の権利とは、人が生まれながらに持っている権利です。市民の権利とは国ができた、社会ができたとき、その社会に対して要求することができるというのが市民の権利です。その典型的なものが参政権、つまり選挙権です。この参政権は国家がない状態の時には関係がありませんが、国家ができたときに生まれてくるわけです。フランス人権宣言はこの辺を分けて、人および市民の権利宣言としています。1条、2条、3条についてはヴァージニア権利章典と同じように「人は生まれながらにして平等である」ここは自然的諸権利ということで第2条に書かれており、そこには自由、所有、安全および圧政への抵抗である、と書かれています。これは抵抗権のことです。革命を起こし、現在の人権を侵害する政府を改廃する権利があるということを述べています。第3条は国民主権あるいは人民主権の条文です。すべての主権は本質的に国民にある。そして16条では「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法を持たない。」これはつまり、憲法には必ず人権の保障と権力の分立が定められていなければならない。憲法という名称を持つルールがあったとしても、この二つの要素がなければそれは憲法に値しないということを宣言しています。これが自然権思想に基づく人権宣言で、これは人は生まれながらに権利を持っているという考え方です。これに基づいてロック、ルソーに代表されるいくつかの人権宣言がされていきました。ところが、フランス革命が起こった当時、周辺の国はイギリスも含めて王様を持つ君主制の国です。フランス革命とは王様の首を切った革命で、イギリスその他の国にとってみると、この革命が自分の国に飛び火するということを恐れました。それで、この自然権思想は極めて危険であり自分の国に飛び火しないように躍起になるわけです。そこで現れてきた考え方は極めてナンセンスで、権利とは誰かから与えられるべきもので、天からやってくるというのはばかげた話であるというように、「人は生まれながらにして権利を持つ」という考え方を否定する思想が、19世紀以降、力をつけていくことになります。
 今、安倍政権がやろうとしていることは、18世紀のフランス革命において頂点に達した自然権思想を否定しています。実際にこれは自民党のQ&Aにおいても否定すると書いています。そして法実証主義といういかめしい名前ですが、この考え方は「権利とは誰かから与えられるもので、生身の人間で構成された団体によって実証、何月何日誰によって与えられた権利であるということがはっきりしているもの」という考え方です。これは誰によって与えられるのか。これは君主です。19世紀、君主を持つ国にとっては君主が権利を与える、君主の恩恵によって与えるものであるという考え方が力をつけてくることになります。逆に、自然権思想は衰退していくことになります。この法実証主義に基づくもっとも代表的な憲法が1850年に制定されたプロイセン憲法です。明治憲法がお手本にしたものです。このプロイセン憲法において否定された人権で注意することが二つあります。一つは主語です。フランス人権宣言では「人」ですが、プロイセン憲法では「プロイセン人」です。このように国籍つきの主語になっています。これは、権利は王様が国民に与えたものであるから、これは人、一般の権利ではなくプロイセンの国王がプロイセン人に与えた権利だから、主語はすべてプロイセン人になるわけです。これが19世紀の特徴です。
 もう一つは検閲の規定ですが、「検閲は行われてはならない。ほかのすべての出版の制限は、立法の方法によってのみなされ得る。」ここにはマイナスとプラスの面があります。プラスの面は、王様の命令によって人権を制限することができないということが明記されたことです。ここが一つ前進したところです。しかし、それには大きなマイナスを伴う。それは、法律という形式をとるなら人権というのはどこまでも制限することができるというマイナス面を持つということがわかりました。これが、後で言いますが、法律の留保です。権利は法律の範囲内で認められるという考え方です。これを手本にしたのが大日本帝国憲法です。ここでの主語はすべて日本臣民になっています。これは、天皇が恩恵として日本国民に与えた権利だから、日本臣民となっています。さらにもう一つの特徴である法律の留保です。議会によって法律を制定するならば、人権を制限することは可能であるということが随所に出ています。表現の自由については「日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会及び結社の自由を有す」ということで、法律の範囲内において権利を行使することができる。法律が制限するということは権利ではなくなってしまうわけです。そして日本においては治安維持法によって、人権保障がゼロまで失われていくことになるわけです。そしてもう一つ明治憲法の特徴的なことは、これは信教の自由を保障した条文ですが、この中に明文で権利を制限するということが書かれています。「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かさる限りにおいて信教の自由を有す」臣民たるの義務というのは、国家神道の儀式に従って様々な宗教的行事を行うというのが臣民としての義務でしたが、国家神道の範囲内において、他の宗教が許されるという条文の作り方です。というように、大日本帝国憲法は法律の範囲内でということだけではなく、憲法自ら信教の自由に対して制限を設けていたということです。
 そして、明治憲法にあって現在の日本国憲法にない条文という中で代表的なものが、緊急事態についてです。今、安倍政権はこの明治憲法と同じ緊急事態に関する条文を憲法改正の中に含めようとしています。31条に人権の規定は、戦時又は国家事変の場合において天皇大権の施行を妨げることなしということで、天皇の命令において戦時では人権を妨げることは可能であるということを言っているわけです。これを安倍政権は、天皇に代わって内閣総理大臣によって人権を制限する規定を設けようとしているわけです。この国のリーダーは自分だから、戦時に、あるいは大きな事変が起こった時には、人権を制限する権利が自分にはあるということを言わんとしているわけです。こういった条文を今、自民党草案の中では盛り込もうとしているわけです。さらに戦争中について、軍隊の中においては人権について大きな制限を受けるというのが32条です。この大日本帝国憲法は、プロイセン憲法に代表される法実証主義、自然権を否定する考え方を基礎にしてなってきたものです。ただ明治憲法が悪いということでは決してなく、これは時代の制約があったということです。ヨーロッパもフランス人権宣言を否定し、プロイセン憲法のように自然権を否定しているわけです。その流れの中で明治憲法が制定されたということであって、これは明治憲法固有の問題ではありません。その時代の問題でした。そしてこの法実証主義の考え方、これは結果的にみると歴史的に大きな悲劇を見ることになるわけです。法律によって人権を制限することができるという、人は生まれながらに権利を持っているという考え方を否定したツケというのは非常に大きなものでした。この最悪の事態がナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺です。600万人とも言われる人たちが虐殺される。この当時、国家でもやってはいけないことがあるのだということがまさに自然権だったわけですけれども、この自然権の考え方が否定される。結果的に、国家は何でもできるという考え方に法実証主義はつながっていくことになったわけです。それが第二次大戦中のユダヤ人の大量虐殺につながっていくわけです。当然ですけれども、ヨーロッパの人たちは、この法実証主義の考え方は否定しなければいけない。国家においてもやってはいけないことがある。その一線を画すのが人権であると考えました。そこで戦後、自然権という考え方が復権をするわけです。法実証主義という考え方を改めて否定した上で、人は生まれながらに権利を持っているという考え、それが国家がやって良いことと悪いこととの限界である、国家は人権を制限することはできない。侵害することはできない。国家が人権を侵害した場合には国家の正当性を失う。国民はその政府を廃することができるのだという考え方が、第二次世界大戦後、改めて復権することになる。その中で日本国憲法ができたというわけです。日本国憲法というのは、明治憲法の法実証主義の考え方を否定し、自然権へと回帰した後にできた憲法だということです。そういう歴史の中で日本国憲法が生まれたということです。それを安倍政権は今さらに19世紀の法実証主義的な考え方へと回復しようとしています。我々はどちらを取るのか。人は生まれながらに権利を持っているという自然権思想に止まるのか、19世紀的な国家が人権を制限できるという法実証主義的な考え方へ再び戻るのか、そういう岐路に立たされているというわけです。

<人権の理念>
 では、人権とは何かということをお話していきたいと思いますが、人権とは人が生まれながらにして持つ権利、人が人間であるということだけ、それ以外何の理由もなく認められる権利が人権です。これを人権の固有性といいます。これは人間固有のもの。人間に生まれながらに備わっている権利であるということです。人権は国家によっても奪うことができない権利である。これを不可侵性といいます。人権は普遍的なもので、人種であるとか、国籍、身分、そういったこととは関係がなく、すべての人間に認められた権利であるということです。法実証主義の中ではプロイセン人であるとか、日本臣民であるとか国籍に限定された権利だったわけですが、そういうものではないということです。そして国家はその権利を侵すことはできない。これが人権の三つの性質です。この考え方が日本国憲法の中に表れています。11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことができない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。」この侵すことができない永久の権利というものが不可侵性を表している。さらには97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」ということで、現在の国民だけではなく将来の国民に対しても侵すことのできない権利であると言っています。自民党の改憲草案においては、11条と97条は立法としてダブっていると言っています。なぜ同じことを書いているか、それは当たり前のことで大切なことだから最初と最後に書かれているのですが、自民党草案ではどちらかを消そうとしているわけです。「侵すことができない永久の権利」ということは憲法改正によってでもできないということです。つまり、現在の日本国民が将来の国民に対して制限を課するような憲法改正をすることはできない。憲法改正の限界がここでも示されています。人権保障について、人権を制限するような憲法改正はやってはいけないということが11条、97条で示されています。では、なぜ人間は生まれながらに権利を持っているのかということです。これはよく言われることですが、自明の真理であるといわれています。自明の真理とは三角形の内角の和は180度である、これはどの三角形も変わらない自明の真理で、これ以上証明することができないということが自明の真理です。確かにそれだけでいいのかもしれません。ヨーロッパのように人権保障の長い歴史のあるところでは『人権とは自明の真理である』と一言で済まそうとすればそれでいいのかもしれません。が、人権において歴史が浅い日本では、自明の真理であるということについて、もっともっと深く問い直さなければならないと思います。ここではいろいろな考え方があります。なぜ人間には人権が保障されているのか。いろいろな考え方があります。その中でもっとも代表的な考え方についてお話をしていきたいと思います。
 人権はすべての人間に与えられた権利ですから、すべての人間に備わっている性質に基礎づけられなければなりません。特定の民族、特定の性、特定の宗教を信仰している人、こういった性質に基づいて人権を基礎づけることはできません。すべての人に備わっている共通の性質に基づいて基礎づけなければならない。それは、普遍的な人間性に基づかなければならない。食事をするとか眠るとか排泄をするとか、すべての人間に共通することがあるわけですが、それが人権の根拠になるかというと、それはなりません。人権の根拠であるなら、それは道徳的に価値のあるものでなければならない。では、人間にとって、共通していて、しかも価値のあるものは何か。これはいろいろな考え方がありますが、これは一人ひとりの人間が自分の人生の目標を自分自身で選び取る、そしてそれを達成するために真摯に努力をする。これを自律といいますが、こういったことが人間共通の性質で、なおかつ価値のある性質だと思います。それが人間と動物とを区別する大きな基準だと考えます。自律性は一方ではすべての人に備わっている性質です。これが実際に自律しているかどうかではなく、むしろ潜在的な能力としては、障がいを持つ人も含めてすべての人が自分自身の人生の目標を選び取り、それに対し真摯に努力をしていくという性質を持っている。それはすべての人に備わっている普遍的な性質だけれども、ここで大切なところは、自律を行使することで人々の個性が生まれてくるということです。一人ひとりの宗教、道徳観、哲学に基づいて自分自身の生き方を発見し実現していく中で、一人ひとりの個性が生まれてくる。普遍的ではあるけれどもその人らしい個性を生む、そういう非常に重要な性質で、だからこそ価値のあるものだろうと私は思います。憲法13条「すべて国民は個人として尊重される」という個人尊重の原則というのは、こういった自律した生き方をした人たち自ら、その人らしい個性が生まれてくる。その個性を持った個人を尊重するということを憲法13条は保障し、さらに人権を保障していくのだけれども、その人権保障というのは、すべての人には様々な人生の目標がある。いろいろな人生の目標を追求するにあたって、そのための最小限度の条件、たとえば生命。どんな人生を生きるにあたっても、まずは生命が必要だろう。そして、その生きる目標を実現するためには様々な精神の自由、身体の自由、経済的な自由が必要になる。 さらに自律の能力を発揮するため教育が必要である。そのための財産も必要である。どんな生き方をするにあたっても、最小限度の利益、権利、自由を保障するのが人権だということです。
 もう一度繰り返しますが、憲法がいう個人とは自律した個人です。そして真剣に努力をする。そして自律した生き方から生まれるその人らしさが個性となります。ある人が人生の目標を自由に設定する。例えばその人の目標は教師になるということで、目標となる先生がいて自分もそうなりたいという目標を立てる。そのことによってどういう進路を選ぶのか。高校生ならどういう大学へ進むのか。大学生になった時どんなアルバイトに就くか。少しでも子供たちの考え方がわかるようになるそんなアルバイトを選ぶ。あるいはどういう趣味を選ぶか。その人の目標に応じて進路や職業が決まっていくわけです。そこから個性が生まれ、それが自律ということであると思います。国家はその個人を尊重しなければならない。自分にふさわしい生き方であると決めた生き方を、尊重しなければいけないわけです。それぞれの人が選んだ生き方に格付けをしてはならないと思います。オリンピックでメダルを取った人の生き方と、そうではない人の生き方を区別してはならない。こういったことを国家が決めてはならないということです。そして国家は特定の生き方を強制してはならないということです。戦前のように天皇のために死ぬ、そういう覚悟ができている国民こそが生きるに値する国民であるというように強制してはならないということです。さらに国は、いろいろな生き方を許す社会的な条件を整備しなければならない。いろいろな人生の目標を達成できるような社会的な条件を整えていくことが、国家の義務ということになるわけです。繰り返しますが、個人は自律した個人として様々な生き方を選び、それを実現するよう努力する。私の好きなイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルは、自律ということに非常に大きな価値を置いた人です。彼は「人生というのは実験である。さまざまな生き方を実験することが人生で、その実験を許すような自由な社会を実現しなければならない」ということを言ってきました。そしてそこから生まれてきた個性を大切にする。そのために必要な権利として幸福追求権があります。これは、人権の根本となる権利です。憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される。」そしてその後に生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。個人として国民を尊重する。そのために必要な生命、自由、幸福追求という権利を保障するということで、自律、個人尊重そして生命、自由、幸福追求に対する権利というのがひとつながりになって憲法13条の中で規定されているわけです。日本の憲法の中で一番大切な条文は何かというならば、この13条ということになります。この幸福追求権というのは非常に大切な権利です。
 これは歴史的にみると、ヴァージニア権利章典に由来をたどることができる古い権利です。この幸福追求権から様々な人権が枝分かれしていくことになります。法の下の平等、自由権の中には身体の自由、表現の自由をはじめとする精神の自由、職業選択の自由、財産権といった経済的自由、参政権、そして社会的生存権や労働基本権。国務請求権というのは、簡単にいうと国からサービスを受ける権利です。ここで重要なのは裁判です。国が紛争を解決するために裁判所を作り、紛争を解決するという裁判を受ける権利を保障する。日本国憲法のカタログに載っている、今ある権利というのは、幸福追求権から枝分かれして保障されている。この幸福追求権の重要な役割は、さらに個人の自律、そして個人として尊重するために必要な権利をさらに新しく生み出す母体にもなるということです。日本国憲法を改正する人の中には、人権の規定が古くなったからと言う人がいます。プライバシーの権利がない、環境権がない、知る権利がないなどいろいろな権利が日本国憲法の中で抜け落ちているから、新しくしなければならないと言います。しかしながらこれは日本国憲法を全く理解していない人の発言です。少なくとも日本国憲法のカタログは古くならないように、必要があればこの幸福追求権から新しい権利を導くことができます。プライバシーの権利も、環境権もすべて知る権利として日本国憲法の中できちんと保障されています。少なくても裁判所は保障される権利として実際に存在しているわけです。それを憲法に書くかどうかというのは別の問題です。憲法の中で、幸福追求権の中で、新しい権利がもはや憲法上の権利として保障されている。その母体となるのが幸福追求権ということで非常に大切な権利だということです。この憲法13条は個人として尊重されるという日本国憲法で最も大切な権利を定めているだけではなく、人権の中で新しい権利を生む、そういう仕掛けまでも作った大切な条文だということです。
 この13条の中でも、公共の福祉に反しない限りという言葉があります。公共の福祉に反しないということについては、人権も公共の福祉によって制限を受けるのではないかと考えています。確かに人権は絶対ではありません。公共の福祉によって制限を受けます。これからお話したいことは、公共の福祉と公益とは全く違った概念だということです。公共の福祉というのは人権と密接なつながりがあります。これはある意味ではセットです。その中で人権が制約されるということですが、公益というのは人権と対立する概念です。あるいは国家の安全というのは人権とは関係なく全く対立する概念です。しかし、公共の福祉というのは対立する概念ではありません。むしろ人権の中から公共の福祉という概念が生まれます。日本国憲法が予定している人権を制約する場合、それは四つのパターンがあります。一つは権利と権利が衝突した場合です。表現自由と名誉が衝突する。雑誌の記事がその人の社会的評価を低下させるような嘘や偽りが含まれていた場合。これはそれを書いた記者の表現の自由だったとしても、他人の名誉を侵害することはできません。これはすべての人は平等に権利を持っているわけですから、特定の人の特権ではありません。記者の表現の自由といっても、これは他人の名誉やプライバシーを侵害できるような特権ではなく、お互い権利と権利を尊重しあわなければならない。そこから衝突した場合これをどう調整するか。もう一つは、人間は最初から成熟した、自律した人間ではありません。一人の人間の中で、ある時の行為が将来の自分の利益を大きく損ねる場合があり得るわけです。典型的なものが自殺です。自殺の権利を認めるかどうかについては、憲法上争いがありますけれども、しかし、自殺は将来自分が生きる権利を奪ってしまうことになる。これは究極のことになりますが、ある時の行為が将来の自分の利益を大きく損ねる場合、現在の行いが制限されるという場合があり得るわけです。これが、子どもの権利については大人とは別の制限を設けるということの根拠になっています。子どもは将来大人になりますが、その時に100%人権を行使できるように、子ども時代の人権というのはある面で制約を受ける。これは人権のための制約です。こちらも、人権と人権が衝突した場合、この人権を保護するために別な人の人権を制限する場合がある。この場合は同じ一人の人間で、現在の行為が将来の自分の人権を損なう場合があるので制限を受けるという場合がある。これもまた人権のための制限ということになります。もう一つは人権と人権です。これは日本国憲法が社会権を保障している権利であるということから特徴的です。ある人の経済的な自由、たとえば企業の営業の自由。これも別な人の、経済的、社会的に弱い立場にある人の生存権を守るために制限を受ける場合がある。これもまた他人の人権を守るために、経済的な自由の制限を受ける場合がある。例えば、経営者の営業の自由を労働者の労働基本権が制約をすることになるわけです。あるいは、障がいのある人に対し企業は様々な合理的配慮をしなければならない。これは障がいのある人の権利を守るために制限を受ける。スロープをつけたりエレベーターを設置したりする義務を負わされる。これは他人の権利を守るためのものである。このように公共の福祉というのは、誰かの人権、あるいは自分の人権を守るための制約であるということです。公共の福祉は人権と密接な関連がある、そういう考え方です。ただ、必ずしも人権に解消されないような利益というものもあります。
 例えば表現の自由といえども、あちこちにべたべたとポスターを張ったり、景色の良いところ、京都の美しい街並みなどにけばけばしいネオンサインを設置したりして、町の美観を損ねることがある。これは確かに環境権とか別な言葉で権利に言い換えることができるわけですが、なかなか言い換えることが難しいものもあります。そういう意味で、もう一つ非常に重要な社会的な利益のために、人権が制限される場合があるというのがこの四つです。ただこれは非常に例外的なものです。しかも、ここでいう社会的な利益というのは、極めて重要な利益でなければなりません。この三つのパターンと並ぶほど大きな利益がここで問題とならない限りは制約することはできません。国家とはこういった人権同士の衝突、あるいは個人の権利を守るための場合、そして社会的な重要な利益を守るために調整する、この原理が公共の福祉ということになります。公共の福祉は人権とは違う外側にある社会、あるいは国家の利益という意味ではありません。自民党の改憲草案はこの公共の福祉という言葉に代えています。公共の福祉というのはあいまいな概念です。確かに50年前までそう言われていましたけれども、今の日本国憲法の解釈の水準の中では、公共の福祉というのは決してあいまいではありません。ここで私が言った四つのパターンというのは憲法学の通説で、決してあいまいな概念ではありません。さらに60年間の裁判所での判例の積み重ねがありますから、決してあいまいな概念ではありません。これを60年たった今での安倍晋三も含めた自民党の議員たちは、あいまいな概念だからもっとはっきりとした概念、国益、あるいは国の安全といった概念にしようとしているわけです。この考え方の底にあるのは、こういった公共の福祉の考え方をさらに一歩進めて、もっともっと人権を制限しようとしているという疑いがあると言わざるを得ないわけです。
 では、この公共の福祉といった概念をどう調整するのかということですが、人権と公共の福祉を調整するとき、利益と利益を天秤にかけてどちらが重いのかということを調整しなければならないわけですが、その際たいていの場合、人権が負けてしまいます。それぞれの個別の事案において、人権の価値というのは多くの共感を得ないような人権の行使というものがあり得るわけです。例えば、特定秘密保護法ですが、その中で報道や取材の自由というのが一方の人権の天秤に乗せられるわけです。しかし、片方には国家の安全、国民の生命、円滑な外交関係、こういったものがまともに乗せられてしまうと、どうしても取材の自由というのは小さく見積もられてしまうわけです。こういった最初から判ってしまうような比較はすべきではないと憲法では考えられていて、比較衡量はできる限り人権の方にさらに重みを乗せた形でしなければならない。この考え方は、アメリカで発展した二重の基準という考え方です。それぞれ個別の利益衡量をするのではなく、一定程度様式化した形で行う。その際、法律の合憲性を審査するのは裁判所ですが、人権の制約する立法が憲法に違反していないかどうかということを審査することになるのですが、特に表現の自由については厳格にする。バランスをこちら側に置く。その一つの表れが、表現の自由を国家が制限しようとするときにはこれは違憲の推定が働く。よほど重要な利益を国家が示さない限りは違憲になるといったように、表現の自由については極めて有利なような設定をする。しかし、経済活動については立法府の判断を尊重しましょうというように、精神的な自由と経済的な自由とを分けて合憲性の判断をするというのが、アメリカそして今の日本の最高裁判所が取り入れている考え方です。表現の自由については、初めから違憲という目で裁判官は審査をしなければならない。よほど重要なものが乗らない限りは表現の自由、報道の自由、取材の自由が勝つ。経済的な自由については、様々な利害の調整をしなければなりません。これは裁判所がやることではなく、国会がやるべきことなので国会の判断を尊重しましょうということです。さらに公共の福祉の中身をそれぞれの人権に応じて精密な形で様式化しているのが、現在の日本の裁判所の考え方であり、憲法の基本的な考え方です。公共の福祉も含めてこれを全部否定しようとしているのが、自民党の改憲草案ということになります。

<2000年以降の最高裁判決の動向>
 最近、最高裁判所は違憲の判断をすることが増えてきました。2000年には五つの違憲判断があります。これに1票の格差の違憲状態を含めるとさらに増えますが、法律を違憲にした、あるいは国家の行為を違憲にしたケースです。これまでの最高裁判所が違憲判断をするというのは消極的と言われてきましたけれども、2000年に入ってからは積極的な判断をしています。一つは最高裁判所が積極的に違憲判断をする一つの領域は選挙権です。選挙権は国民主権を具体化した権利ですから、最高裁は厳しい判断をします。『在外邦人選挙権訴訟』というのは、外国にいる日本国民については、衆議院であれば比例区については選挙権がありましたが、小選挙区の行使ができないということが公職選挙法で定められていました。そのことについて争われたものです。これは、憲法15条に反するということで違憲になりました。もう一つは『平等』に関する問題について積極的になっています。その中でも家族に関する問題・非嫡出子の問題、婚外子の問題について、今、二つの違憲判断が出ています。一つは外国人との婚外子についての差別です。日本人の男性と外国人の女性と、結婚をしない二人の間で子どもが生まれた場合ですが、男性が認知しただけでは日本国籍は付与されないというのがかつての国籍法でした。しかしそれは法の下の平等に違反するということで違憲判決が出ました。もう一つは非嫡出子の遺産相続分についてです。婚外子については嫡出子の二分の一と定めた民法900条の4の但し書きは、憲法14条に違反するという判決です。それからもう一つ政教分離について最高裁判所は厳しい判断をしたり、そうではなかったりと、ここは非常に揺れているところですが、2010年に北海道の空知太神社について、砂川市が神社に無償で土地を提供していたことに対し、憲法89条、20条に定める政教分離に違反をするという判断を下しました。その前に愛媛玉串料訴訟というのがありました。これについても、愛媛県の知事が、靖国神社あるいは県の護国神社に対し公費を支出していたということに対し、政教分離に違反するという判断を出しました。こういう空知太神社訴訟、その前の愛媛玉串料訴訟ということを念頭に置くならば、12月の安倍首相の靖国神社への参拝というのは、おそらく政教分離に違反し、憲法違反の疑いが極めて強いということです。この疑いを払拭するために自民党の改憲草案は、憲法20条の政教分離についても改訳しようとしています。このように政府の動きとは別に、最高裁判所自体は違憲判断を積極的にしているというのが今の流れです。おそらく憲法が改正されるとこの流れは後退して10年20年前の最高裁判所の水準に戻ってしまうという恐れがあります。
 ここでいくつか注目すべき判断についてお話をしていきたいと思います。資料の8ページ目の『目黒社会保険事務所事件』、これは一昨年の事件ですが、これは公務員の政治活動について最高裁判所は極めて画期的な判決を下しました。これまで公務員の政治活動については、猿払事件の最高裁判決において公務員の政治活動についてはほとんど一律に、一切禁止をしても憲法違反ではないというのが確立した最高裁の判決でした。これは何十年も動くことなく、公務員の政治活動については、最高裁判所は一律に制限をするということについては憲法違反ではないという判断をずっとしてきました。ところが、2年前に最高裁判所はこれを緩和するという判決を下しました。これはどういう事件だったかというと、目黒の社会保険事務所の厚生労働省の職員が、地域で政党の機関誌を配っていた。これは当然ですが勤務時間中ではありません。休日に公務員であるという身分を明かさずに配っていました。しかし、猿払事件の基準でいくと休日であろうが、現業職員であろうが、裁量権の持たない職員であろうが関係なく、一律に政治活動を禁止するというのは憲法に違反しないという判決でした。ところが、この2年前の判決では、そうではなく新しい判断が示されました。8ページ目の<1>の下線部分を見ていただきたいのですが、公務員法102条1項というのが政治活動を禁止した規定です「この文言、趣旨、目的や規制される政治活動の自由の重要性に加え、同項の規定が刑罰法規の構成要件となることを考慮すると・・・」つまり単なる懲戒処分ではなく刑罰が課せられるということです。これを考慮するならば「同項にいう「政治的行為」とは、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが、観念的なものにととまらず、・・・」ということは、これまでは観念的であっても損なうおそれがあるならば規制できるということだったわけですけれども、最高裁判所は「観念的なものにとどまらず、現実的に起こり得るものとして実質的に認められるものを指し・・・」つまり、現実に公務員の政治活動が行政の政治的中立性を害するというおそれが示されない限りは、政治活動はできるという新しい判断を下しました。その際、どうこれを判断するかということですが、9ページの<2>のところですが、このような判断をするときには「規制の目的や対象となる政治的行為の内容を鑑みると、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるかどうかは、当該公務員の地位、その職務の内容や権限等、当該公務員がした行為の性質、態様、目的、内容等の諸般の事情を総合して判断するのが相当である。」では現実にこの厚生労働省の職員はどうだったかということですが、この場合については休日、しかもきわめて事務的な作業にかかわるので裁量判断の余地がなかったということから、次は<3>の下線のところを見てください。「これらの事情によれば、本件配布行為は、管理職的地位になく、その職務の内容や権限に裁量の余地のない公務員によって、職務と全く無関係に、公務員により組織される団体の活動としての性格もなく行われたものであり、公務員による行為と認識しうる態様で行われたものでもないから、公務員の職務の遂行の政治的中立性を損なうおそれが実質的に認められるものとはいえない。そうすると、本件配布行為は本件罰則規定の構成要件に該当しないというべきである。」として無罪の判決が下ったわけです。これまで猿払の最高裁判決の下で政治活動については厳しい制限があったわけですけれども、この2年前の最高裁判決によって、これは少なくても管理職の地位になく、職務時間外に公務員としての身分を明かさなければ政治活動の自由があると最高裁判所が、ある意味では判例を変更したということです。これも非常に重要な判決の一つです。最高裁判所は良くない判決も下していますけれども、良い判例もだんだん下すようになってきました。
 もう一つは、(2)の老齢加算廃止訴訟です。これは、生活保護に対する改悪です。これは小泉政権下で行われた生活保護に対する改悪の一つです。母子加算と老齢加算が段階的に廃止され、この後、生活保護がいろいろな形で改悪されていくわけですけれども、その後歯止めとなるようなことを一定程度示したということで、これも注目すべきものだと私は思います。国の財政状態の中で、生活保護の水準の切り捨て、切り下げということが現実に起こっているわけですが、切り下げるときどうしたらいいかということです。そのことについて最高裁判所が指針を示しています。まずは切り下げるとき、それまでの基準があるわけですが、その水準が維持されるということに対して期待的な利益がある。自分が何歳になるとこれだけの年金がもらえるといったように期待的利益がある。それについては尊重しなければならないということを前提とします。この期待的利益を一度に奪ってしまうということを国がやってはいけない。ではどうするかということについてですが、10ページ目の<2>の下線部分を見ていただきたいのですが、「上記のような場合・・・」加算を廃止するといったような生活保護の水準を切り下げる、こういう場合に「・・・おいても、厚生労働省は、老齢加算の支給を受けていない者との公平や国の財政状況といった見地に基づく加算の廃止の必要性を踏まえつつ、・・・」通常は最高裁判所はこれで終わってしまうわけです。厚生労働大臣の広い裁量によってと終わってしまうわけですけれども、さらにこれに加えて最高裁判所は、「被保護者のこのような期待的利益について・・・」生涯もらえるであろうという期待についても「可及的に配慮する必要があるところ、その廃止の具体的な方法等について、激変緩和措置を講ずることなどを含め・・・」たとえば段階的に少しずつ減らしていくといったような措置を講ずる、こういったようなことをしなければ裁量権の乱用になるという判断を下しました。ただ、残念なことにこの老齢加算については、3年かけて段階的に減らすという激減緩和の措置を講じていたので、これは憲法に違反しないという判断になりました。こういった形で、福祉の切り下げについて一定程度、最高裁判所が歯止めをかけるという判断を下しています。これも最近の判例の中では非常に注目されるものだと私は思っています。このように最高裁判所が憲法を守るという立場からかなり踏み込んだ判断をしているということに対して、自民党の改憲草案はさらにこれを後退させるものだと非常に危惧をしています。
 最後になりましたけれども、自民党改憲のやり口はある意味で非常に巧妙です。巧妙なやり口で人権を制限しようとしているわけです。今日は二つの例からその巧妙なやり口についてお話をします。一つが政教分離です。これについては最高裁判所が違憲判断を積極的なやろうとしているのが一部にある。これを何とかしようと、改憲草案では次のように起草しています。現行の20条3項では国及び公共団体は、宗教教育その他の宗教的活動であって・・・宗教活動を行ってはならないと単純にしています。自民党はここに『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える』そういった活動についてはしてはならないと言っています。そしてこの後に、最高裁判所の判断を引用しています。この『社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える』ということはどこからきているかというと、これはかつての政教分離について、最高裁判所は極めて消極的だった時代の判決を引用する形で作っています。先ほどお話をした愛媛玉串料訴訟あるいは空知太神社訴訟といったような判決ではなく、非常に古い消極的な判例を使って憲法改正を行おうとしているわけです。この津地鎭祭訴訟はどんなものだったかというと、津市が市立体育館を建てるにあたって起工式を行いましたが、それを神道形式に従って行いました。これは誰が見てもこれは神道の儀式であるけれども、最高裁は地鎮祭は「一般の意識では起工式でさしたる宗教的意義を認めず、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。」だからこれは宗教的な意味はないと断定したうえで地鎮祭については憲法違反ではないという判定を下したわけです。これに対して名古屋高等裁判所は違憲だという判断を下していました。学説もこれに対しては非常に批判が強かったです。神社の神主が来て、しかも神道形式でやっているにもかかわらず宗教的意味はないということは詭弁だと誰もが思うわけですが、最高裁は慣習化した社会的儀礼だと判断を下したわけです。自民党は最高裁のこの部分をうまくつまみ食いをして20条を改正しようとしているわけです。このように古い判例、最高裁判所の悪い判例を使って様々なことを後退させようとしているわけです。
 さらにもう一つ。これは特定秘密保護法についても、最高裁判所の悪い面をこの中に入れています。毎日新聞の西山記者が外務省の女性職員から情報を入手したというあの事件ですが、最高裁判所は西山さんの有罪を認めたわけです。その際、確かに記者は一定程度取材の自由があると言ったのですが、その取材の方法が一般の刑罰法規に触れる場合はやってはいけない。例えば脅迫、賄賂を贈る、強要するといった犯罪にあたるような取材行為はいけない。これは当然のことです。しかし最高裁判所はそれだけではなく、取材対象者の個人としての人権の尊厳を著しく蹂躙するなど法秩序全体の精神に照らし、社会観念上是認することのできない態様の取材についても免責を与えることはできないと言ったわけです。西山さんは別に犯罪を犯したわけではないのでこちらの方にあたるというわけです。西山さんは外務省の女性職員と肉体関係をもって、女性職員が断れないような心理状態に追い詰めた上で、情報を入手したというのが最高裁判所の認定です。このことは女性職員の人格の尊厳を著しく蹂躙するもので、取材活動の範囲を著しく逸脱して自己犠牲を帯びるという判断を下しました。しかし、この部分は極めて道徳的な内容で、何が含まれるのかという点については非常にあいまいです。それを特定秘密保護法の中で、「著しく不当な方法」、これは「法秩序全体の精神に照らし、社会観念上是認することのできない態様」これを不当な方法だと言っています。学説がこぞって批判をしている判例をここに取り入れています。では、西山さんのやり方をすれば、これは免責は与えられないということになるわけです。このように、現在の自民党の改憲草案にしても、安倍政権にしても、最高裁判所の悪い面を取り入れる形で様々な法案、憲法改正を行おうとしています。とするならば、我々は人権は大切だというだけではなく、これまで60年間にわたって最高裁判所、憲法の学説がどのように人権の中身を豊かにしてきたのかということを、我々自身が勉強し、きちんと反論、批判ができるような水準になければならないだろうと私は思っています。そのためにも、私自身も含めて、人権についてはまだまだ勉強をしなければならないと思います。

 今日は人権の歴史、人権の中身、人権が制約される場合、現在の最高裁判所の極めて積極的な姿勢、その中でフランス人権宣言の水準をさらに後退させる、否定するような自民党の憲法改正が目論まれているのだということです。憲法9条は人権を守るためにあるわけです。平和的生存権、幸福追求権という権利を守るために憲法9条があり、日本国憲法の平和主義があるわけです。この憲法9条の土台でもある人権が揺らいでしまえば、憲法9条も平和主義も揺らいでくることになるわけです。まずは人権という土台をきちんと固めた上で、さらに憲法9条についてきちんと守っていくということが大切なことだろうと思います。長時間にわたり、部分的には極めて専門的な話になってしまいましたけれども、今日の私の話はこれで終わります。ご清聴ありがとうございました。

関連団体リンク

サイトメニュー

トップページ
サイトマップ

イベント予定表
労働相談コーナー
活動報告
政策情報
春闘
最賃
労働判例
執行委員会報告
大会等資料
連合資料室(憲法講座講義録)
マンスリーれんごう北海道
連合北海道の談話
割引サービス

連合とは
入会案内
お問い合わせ
リンク集
アクセスマップ
プライバシーポリシー


サイト内検索

ANDOR サイト内
2014年2月28日以降の新着記事に関しては、こちらのページ右下の青色枠の検索窓をご利用ください

連合北海道ロゴ 〒060-8616 札幌市中央区北4条西12丁目1−11 ほくろうビル6F
TEL:011-210-0050 FAX:011-272-2255 / 011-281-3353
Copyright(C) 2010 連合北海道 All rights reserved.
Counter